浄蓮寺は、はじめ、石山観音の近くにあり、磨崖仏を管理していました。天正年間(1573~91)に現在の場所に移ってきました。
浄蓮寺には、現在石山観音の聖観音の下絵となった軸(紙本淡彩聖観音立像)が保存されています。この聖観音は、唐招提寺の観音像を模写したものといわれています。
また、境内には『さよが池』の主人公、おさよの供養塔があります。
【さよがいけ】
さよがいけ “さよが池”は、芸濃町楠原に伝わるお話です。
むかし、むかし、ずっとむかしのおはなしです。
伊勢のくに、楠原というところの、お宮さんのそばに、大きな池がありました。
この池は、大雨が毎日、毎日降り続くとゴーゴーッ、ゴーゴーッと音をたてて、土手が崩れてしまうのです。
さあ、そうなると大変です。牛も馬も野菜も食べ物も、みんな流されてしまうのです。
さよがいけ家も水の中につかってしまい、村人たちは、大変、困りました。
今日も、朝から、雨がザーザー降り続いています。
「えらい雨じゃなー」
「ひどうならんと、ええがのう」
と村人たちは、集まって心配していました。ところが、雷が鳴り、雨は、ますます激しくなるばかりです。
「大変だ!、大変だ!、池の土手がまた崩れるぞ!。」
さよがいけ「こまったなあ」「どうしよう」
と村人たちは、一生懸命考えました。
すると、一人の男がいいました。
「ずっと前に、こんなことを聞いたことがある。それは、人柱をたてたらええということじゃ。」
「人柱?人柱ってなんじゃ。」
「人柱とは、いきた人間を土の中にうめて、神様の、おいかりをしずめるのじゃ。」
「それは、ええことかも、しれんぞ。」
「でも、だれを人柱にたてるんじゃ?。」
「… … … … …。」
みんな、シーンとだまってしまいました。
そこで、村人たちは、誰にしようかと相談しました。
誰も人柱になるのは、こわいし、いやだからです。
さよがいけそして、とうとう、はかまの、前と後を間違えて、はいてるものに決めました。
ある日のこと、庄屋さんが、はかまを前後反対にはいてきました。
「おい、はかまを、前後反対にはいたものが来たぞ。」
「誰だ、誰だ。」
「なんだ、庄屋さんじゃないか。」
そこで、村人たちは、人柱の話を、庄屋に話しました。すると、庄屋はびっくりして、
「ええ。なんじゃとぉ!、そ、そ、そりゃ困る。わ、わしだけ、勘弁してくれ。」
と頼みました。
「しかしのぅ、みんなで決めたことじゃから… …。」
「庄屋さんには、悪いがのぉ。」
すると、庄屋は
「そうじゃ、サヨじゃ、サヨじゃ、わしの家に奉公に来ているサヨという娘がおる。そのサヨでは、どうじゃろう。」
さよがいけ「サヨなら、一人で奉公に来ているのだから、いなくなってもわかりゃしない。」と話をもちかけました。
村人たちは、
「そうじゃのう。それがええかもしれんのう。」
ということで、サヨを、庄屋の身代わりとして、人柱にすることにしました。
その夜、庄屋は、どうしたら、サヨを池に行かせることができるか考えました。
あくる日、そんなこととも知らないサヨは、朝早くから、いつものように、一生懸命働いていました。
すると、いつもこわい顔をしている庄屋は、この日ばかりは、にこにこして、
さよがいけ「おーい、サヨ。この弁当を池まで持っていってくれんか。」
「はい。行ってまいります。」
やさしい、サヨは、
「誰が、お弁当を食べるのかなぁ。早く、届けてあげましょう。」
と池へ急いでいきました。
サヨが、土手に登るのを見届けると、そっと、後をつけてきた庄屋は、サヨの、背中を押して、穴の中につき落としました。
かわいそうに、サヨは、庄屋の身代わりにされてしまいました。
それからというもの、不思議なことに、村は、水びたしに見舞われることがなくなり、平和な日々が続きました。
さよがいけ ある日のこと、サヨのお母さんが、遠い丹後の国(現在の京都府北部)から、尋ねてきました。
「庄屋さん。サヨは、元気でおりますか?。あわせて下さいな。」
すると、庄屋は、こわい顔で言いました。
「サヨなどしらん。どこかへ行ってしもた。」
と言って、また、
「早く、帰れ、帰れ。」
とお母さんを追い返してしまいました。お母さんは、
「サヨ、サヨ。どこにいるの?。」
と、泣き、泣き、国へ帰っていきました。
それから、二年たち、三年たちして、大変なことが起こりました。
さよがいけそれは、夜になると、馬にまたがり、手にたいまつを持った女の人が現れ、西の方から家に、火をつけるのでした。
その女の人は、庄屋の身代わりのサヨにそっくりでした。
庄屋や村人は、口々に
「たたりじゃ。たたりじゃ。」
と大騒ぎになりました。
そこで、村の人は、池の頭に、弁天さんとしておまつりし、毎日、毎日、お参りにいきました。
「サヨ。お前をだまして、すまなかった。」
「本当に、わしらが、悪かったんじゃ。」
「お母さんまでだまして、許しておくれ。」
村の人たちが、一生懸命に、サヨさんに謝って暮らすうちに、いつのまにか池は、いつも青い水が一杯たまり、土手も切れずに、牛や馬も流されなくなりました。
また、火事もなく、平和な村になりました。
そして、この池は、「さよが池」と呼ばれるようになりました。今でも伊勢の楠原に残っているそうです。