藤堂高虎公について
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高虎公の足跡
弘治2年(1556)

近江国犬上郡藤堂村(のち在士村)に藤堂虎高の次男として生まれる。幼名「与吉」

元亀元年(1570)

浅井氏に仕える。姉川の戦いで初陣を飾る。

天正元年(1573)

浅井家を出奔する。磯野丹波守員昌に仕え、80石を与えられる。

天正4年(1576)

磯野家を出奔する。木下秀長に仕え、300石を与えられる。「与右衛門」と称する。

天正5年(1577)

木下秀長に従い播磨に移る。

天正6年(1578)

羽柴秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦う。

天正8年(1580)

山陽の三木城攻めで、敵将賀古六郎右衛門を討ち、名馬「賀古黒」を獲て愛馬とする。秀長に従い丹波に入り、一揆を治める。戦功により3,000石加増され、3,300石となる。

天正9年(1581)

但馬養父郡大屋村の栃尾祐善の媒酌で、一色修理太夫の娘(久芳夫人)と結婚する。

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天正10年(1582)

秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦い、本能寺の変後、山崎の戦いに従う。

天正11年(1583)

秀長に従い伊勢国で滝川一益と戦う。4月賎ヶ岳合戦に戦功し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となる。

天正12年(1584)

小牧・長久手の戦いに家来を率いて戦う。

天正13年(1585)

紀伊国平定のため秀長に従い、根来衆・熊野攻略に向かう。四国長曽我部氏と戦う。戦功により5,400石加増され10,000石になり大名格の身分となる。秀長の和歌山城築城に携わった。

天正14年(1586)

秀吉が家康と縁を結び、家康の上洛に際して家康の京都邸造営を担当する。

天正15年(1587)

秀吉、九州へ出陣し、秀長軍の先鋒となり島津氏と戦う。戦功により従五位下に叙せられ佐渡守と称する。10,000石加増され紀州粉河20,000石の大名となり、居館を構える。丹羽長秀の三男「仙丸」(のち高吉)を養子とする。

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天正18年(1590)

秀長軍を率いて北条氏と戦う。

天正19年(1591)

秀長死去し、嗣子秀保襲封。秀保の後見役となる。

文禄元年(1592)

朝鮮出兵(文禄の役)に従う

文禄4年(1595)

秀保急逝し嗣子がないため、主家廃絶となり高野山に入る。秀吉に請われて下山する。50,000石加増され伊予宇和島70,000石に封ぜられ、宇和島城を築く。

慶長元年(1596)

再び朝鮮出兵(慶長の役)に従い、水軍を指揮する。

慶長2年(1597)

朝鮮水軍に勝利。

慶長3年(1598)

戦功により伊予大洲で10,000石加増で、80,000石の大名となる。

慶長4年(1599)

弟正高を江戸に人質に出す。正高、家康より下総に3,000石知行地を与えられる。

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慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いで東軍に属して勝利。120,000石加増され、伊予今治に封ぜられ200,000石となる。今治城を築く。

慶長6年(1601)

近江膳所城の築城。

慶長9年(1604)

伏見城の修築。

慶長10年(1605)

松寿夫人、翌年子高次を人質として江戸に居住させる。

慶長11年(1606)

江戸城修築で、天守閣築造の設計、二の丸・三の丸増築。20,000石加増される。

慶長12年(1607)

江戸城修築で縄張りや普請を受け持つ。官名「和泉守」に変わる。

慶長13年(1608)

伊予今治より伊賀・伊勢へ転封となる。伊賀国、伊勢国安濃郡・一志郡内、伊予国越智郡内(高吉支配)の計223,950石余の石高となる。9月、伊賀上野に入城。10月、津に入城。

慶長14年(1609)

丹波篠山城を築城。

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慶長15年(1610)

丹波亀山城を修築。

慶長16年(1611)

津城・伊賀上野城の修築に着手。二条城で、家康・秀頼会見の接待役をする。肥後熊本藩の監国に赴く。

慶長17年(1612)

禁裏仙洞御所の修築。

慶長18年(1613)

伊予宇和島富田氏所領没収にあたり在番に赴く。

慶長19年(1614)

江戸城本丸修築。大坂冬の陣に従軍のため、11月津城を出発。

慶長20年(1615)

大坂夏の陣に従軍。戦功により、伊勢国鈴鹿郡等四郡の内で50,000石加増され、273,950石余となる。

元和2年(1616)

家康死去の後、日光東照宮造営にあたる。

元和3年(1617)

伊勢国田丸50,000石加増され、323,950石余りとなり、津藩の石高確定となる。

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元和5年(1619)

徳川頼宣の和歌山転封にともない、田丸領50,000石を大和国で4郡・山城国で1郡と交換する。

元和6年(1620)

大坂城修築に。徳川秀忠娘和子(東福門院)の 入内に働き、実現する。

元和7年(1621)

二条城修築に従事。讃岐高松藩の監国を受け、外祖父の立場で藩政を補佐し、西島八兵衛を派遣する。

寛永3年(1626)

江戸上野東叡山寛永寺の造営。京都南禅寺山門を寄進。

寛永4年(1627)

東叡山寛永寺に東照社を造営。

寛永7年(1630)

眼疾により失明し、10月5日死去。享年75歳。江戸上野の寒松院に葬られる。