重要文化財藤堂高虎像
(四天王寺所蔵)
藤堂高虎は、弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(のち在士村・現在の滋賀県犬上郡甲良町)に生まれました。 元亀元年(1570)15才の時、浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣し、その後豊臣秀吉の弟秀長に仕え各地を転戦し、文禄元年(1592)に紀伊国粉河(和歌山県那賀郡粉河町)で1万石を与えられはじめて大名となりました。その後、秀吉の下で2度の朝鮮出兵に参加し、その間伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)7万石をもらい、秀吉直属の大名となりました。
秀吉の死後は徳川家康と親しくし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは大いに奮戦し、伊予国今治(愛媛県今治市)20万石の大名までになりました。築城の名手といわれた高虎は、家康の命により膳所城(滋賀県大津市)・丹波亀山城(京都府亀岡市)・江戸城・丹波篠山城(兵庫県篠山市)など数多くの築城や修築を行いました。 そして家康の信頼の厚い高虎は53才の時、慶長13年(1608)に伊予今治から伊賀国・伊勢国に転封となって22万3千石余の津・伊賀上野城主となり、外様大名ながら大坂方をにらむ要衝の地におかれました。
大坂冬の陣、夏の陣では先鋒として戦い、元和元年(1615)に27万3千石余となり、家康の死後は日光東照宮の造営にあたり、元和3年には32万3千石余の大名となり、全国の百分の一にあたる藩領を手に入れました。
戦国を駆け抜けて立身出世した高虎は、老後にあっても自国にいるひまもなく東奔西走していましたが、さすがに病気には勝てず寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。
現在の津の町は、藤堂高虎によってつくりあげられたといっても過言ではありません。
高虎は、町づくりにも心を配り、いろいろ工夫を加えています。城を中心に北・西・南の三方に武家屋敷を集結させ、東に町屋を置きました。また、城下町全体を土塁や堀などで防衛する構造を考え、津の城下では町の東側に堀川を掘って船入れとして、さらに北へ観音寺の裏から塔世川(安濃川)の支流である桜川の小流につないで、城下の最も外側の守りとする計画でした。
城下町の東側は堀川を境に、その外側に寺院を配置して万一の場合の防御の最前線としました。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止して、万一の場合と火災に備えました。町の発展策として挙げられるのが、従来町はずれの海岸近くを通っていた伊勢街道を城下町のなかを通過させるようにしたことです。これによって、参宮道者が城下を通行するようになり街道沿いの宿屋や商店は大いに繁盛して、その後の町の繁栄に大きな影響を与えました。
また高虎は、新しくいくつかの町をつくりましたが、なかでも伊予町は高虎が前任地の今治から連れてきた人々を住まわせた所で、また寺院の集団地として寺町をつくり、漁民と漁商は浜魚町、海運業者の居住地を築地町などに限定しました。
津の町づくりは、高虎一代で完成したわけではなく、2代、3代藩主へと受け継がれ約90年かかって一段落し、城下町として宿場町として、たいそうな賑わいを見せて、「伊勢は津でもつ」といわれるほどになっていきました。
津御城下分間絵図 享保4年(1719)
(樋田清砂氏所蔵)
1556年に近江国犬上郡藤堂村(のち在士村・現在の滋賀県犬上郡甲良町)に生まれました。乳母一人の乳ではとても足らなかったとか、また誕生以来泣き声はいっさい聞かなかったと言われ、5、6歳になると、大人ほども食事をしたとのことで、幼児から尋常ではなかった。
13歳では、10貫からげの銭(約38キロ)を自由に持ち歩くほどの力持ちになり、身長も当時の人と比べかなり大きく、6尺3寸(約190センチ)あったと言われています。
15歳で姉川の戦いで初陣後、25歳の時、三木城(兵庫県)攻めで豊臣秀吉に認められ、手柄をたてていきます。合戦で、偵察に出掛けた時、敵の槍に刺されながらも、血のりをぬぐって敵をあざむいたという話が伝われている。このようなこともあり、高虎の身体には、刀傷が50ヵ所もあったと言われています。
浅井家を出奔し、放浪の身となった高虎は、三河国吉田宿まで来たとき、路銀が尽きてしまった。しかし、空腹に耐えきれず道中の餅屋に飛び込んで、盆の上に積んであった丸餅をすべて平らげてしまった。我に返った高虎は、店の主人に無銭飲食をわびると、主人はとがめることなく、「これほど見事に召し上がっていただいて、餅屋冥利に尽きます」と笑って、路銀まで恵んでくれたという。後年、高虎はこの恩を忘れないため、「城持ち」に通じる紺地に白い丸餅を縦に3つ並べた白餅柄を、藤堂家の旗指物にしたといわれる。
それから30年余り経ったある日、22万石の大名に出世した高虎の行列が餅屋の前を通りかかった。改めて昔の恩を感謝し、金銀の入った革袋を手渡して、店にあるだけの餅を家臣に振る舞ったといいます。以来、藤堂家の行列がここを通ると、この餅屋で休息して餅を食べるという慣例ができたといいます。
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藤堂高虎公入府400年記念事業実行委員会
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