まちのみんわ やおびくに
伝説の地を歩く
お里が生まれ育ったと伝えられている場所が草生地区の神子谷(むこうだに)にあります。伝説の地をたどってみると…
経ヶ峰登山道入口から狭い山道を10分ほど進むと、左手に小さな社があります。1メートルほど高いところにあるので、教えてもらわなければ気づかずに通り過ぎるところです。
この社に祀られているのは「赤地蔵」と呼ばれるお地蔵さんです。
長い年月のあいだにほうぼうで土になかば埋もれていたのを、地元の方が掘り起こして一堂に集めたのだそうです。
地蔵をこのように赤く塗る風習は珍しく、町内でもここだけにしか見られません。
赤いべんがらを塗る風習がどこから伝わったのかは定かではありませんが、近隣でない遠い地域と何らかの文化交流があったことだけは確かなようです。
地名の由来と八百比丘尼
草生地区に「ひやけ塚」と呼ばれる塚があります。
別名を「くそ塚」といい、「九艘」がなまったものだと伝えられています。
その昔、草生村野口の東は海だったといい、若狭から帰ってきた八百比丘尼が乗っていた船がここに埋められているといいます。
この塚の北を船ヶ山と呼ぶこととも関係があるのかもしれません。
また、この「ひやけ塚」の東を「おひめ野」というのは、八百比丘尼のことがあるからだともいわれています。
常明寺跡からさらに500メートルほど奥に、お里が生まれたという「おびが谷」があります。
「産湯が谷(うぶゆがたに)」がなまって、そう呼ばれるようになったと伝えられています。
これらの伝承も、時代とともに知る人も減り、草生郷土誌にわずかに記されているだけです。
伝説から学ぶこと
安濃町に語り継がれてきた「八百比丘尼」の物語。ただの伝説かもしれません。
しかし、人魚の肉を食べて不老長寿になったという少女の話には、現代にも通じる「生きる」ことと「死ぬ」ことへの真剣な問いかけがあります。
八百比丘尼は孤独のなかに諸国をまわり、病人を癒し、川に橋を架け、貧しい人を助けて田畑を耕し、行く先々で椿を植えたといいます。
「死」までの「生」の時間を、わたしたちはどう生きていくべきなのか?皆が死んでゆくなかで、自分だけがとり残されていく彼女の孤独と苦悩、そして昇華は、高齢化社会に生きるわたしたちのテーマでもあります。